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唐津焼の歴史History of Karatsu Pottery

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来歴は諸説ありますので、そのうちの一説とお考えください。

1580年代末~90年初頭、肥前国(現在の佐賀県および長崎県)の上松浦党領袖である岸岳城主波多氏は、(松浦党は水軍として有名だったため)当時盛んに往来を行っていた朝鮮から陶工を連れ帰り、岸岳山麓にて食器や壺甕などの日用雑器とともに、日本の茶人に好まれる茶陶生産を始めます。茶の席で朝鮮の陶磁器が高く評価されていることを知った波多氏は、茶の湯外交の時流に乗ろうとしたのです。
初期の唐津焼には、土灰釉またはごく一部で絵唐津が焼かれた飯洞甕窯系と、藁灰釉を用いて斑唐津を焼いた帆柱窯系がありました。

波多氏はその後の秀吉による朝鮮出兵、いわゆる文禄の役(1592年~93年)の際、改易(解任と所領の没収)となります。表向きは秀吉の怒りを買ったことによる改易となっていますが、秀吉は朝鮮出兵後の海外貿易拠点の一つとして波多領の没収を画策していたものと考えられています。これにより武士・大名としての波多氏は滅亡します。

波多氏が滅亡すると岸岳周辺の陶工たちは離散し、長崎、伊万里や武雄に窯が移っていきます。これにより唐津藩から佐賀・鍋島藩の領土へ移った結果、文禄・慶長の役後に鍋島藩により連行された朝鮮陶工たちとも合流し、唐津焼は生産量・生産地域ともに拡大します。灰釉を掛けただけの無地の器に代わって鉄絵を施した「絵唐津」が全盛となり全国に流通します。

竹田磋智夫氏 寄贈

この1580年~1610年の間に焼かれたものが、のちに「古唐津」と呼ばれ人気となりました。

生産の中心だった日用雑器の他、唐津焼の特徴であった素朴さと侘びの精神が相俟って茶陶なども好まれるようになりました。また京都、大坂(大阪)などに販路を拡げたため、一般に普及するにつれ「唐津」は肥前産の陶器の代名詞になっていきました。当時、東日本で陶磁器全般を通称「瀬戸もの」というのに対し、西日本では同義語として「唐津もの」と呼ばれていました。肥前一帯で作られた器を日本各地に出荷した唐津港が呼び名の由来となったのです。

絵付けの器は絵唐津から磁器に取って代わられ、肥前陶器では白化粧土を使った「刷毛目」や「三島手」(象嵌)が盛んになりました。

大名たちにとって茶事に優れることは、お家存続のために極めて大切な時代であったため、藩内に産地を持つ大名は熱心に茶陶を焼かせました。1610年代に磁器の焼成に成功した鍋島藩は、生産の軸足を陶器から磁器に移します。それでも唐津では将軍家の好みを反映し高麗茶碗や三島手茶碗などが作られました。

17世紀後半、それまで大量に輸出されていた中国陶磁ですが、明・清王朝の交代に伴う内乱により生産が滞り輸出が停止してしまいます。特に磁器は東南アジアからヨーロッパまで中国磁器の独占だったものが、肥前磁器に取って代わられます。一方唐津焼は東南アジアまで運ばれ、色彩が現地の人々に好まれた二彩手の大皿が主に流通します。
中国で清王朝が国内統一を果たした1683年以降は、再び中国陶磁の輸出が本格化し、東南アジアでは肥前陶磁からシェアを奪回した事もあり肥前陶磁の輸出が頭打ちとなります。そこで肥前陶器は国内市場を開拓するために刷毛目、銅緑釉、京焼写しなどの装飾的な陶器を普及品として量産した事により大量に流通します。
しかしその後、長崎県の波佐見などで「くらわんか碗」と呼ばれる安価な磁器の食器が量産されるようになると、庶民の日用雑器として普及し、18世紀中頃には肥前陶器の雑器は急速に衰退していきます。

18世紀後半になると、燃料の薪を取るための森林伐採により山野の荒廃が深刻となり、近隣の窯業地と薪をめぐる争いも起こったとされます。そのため鍋島藩は藩内の窯場を有田に集約させますが、その影響で多くの肥前陶器の窯元が解体されました。日用雑器としての陶器は磁器より下手物だという印象を持たれてしまい、廃業または磁器生産に転向するなど、肥前陶器の食器はほとんど生産されなくなります。
例外として、唐津の茶陶に関しては全国で評価が高かったため、その後は茶陶を焼くための唐津藩の御用窯「御茶碗窯」として存続し、幕府にも多数献上されました。茶碗献上で培われた技術で「御茶碗師」により作られた上手物の陶器は「献上唐津」と総称されます。

明治時代に入ると、端正で上品な文様を施した茶陶や、置物などの細工物を生産しながらわずかに存続していた唐津焼も、藩の後ろ盾を失いその多くが廃業となり、残った窯元も厳しい状況となります。
唐津を含む日本各地の産地において、陶器が既に廃絶または「献上唐津」のような変貌を遂げるうちに、来歴がわからなくなったり、間違った認識が通説となるものも増えていきます。そして、桃山の茶陶は大正時代には、さほど評価されなくなっていました。
しかし旧大名家から茶道具の売り立てが相次いで開催されると、それまで一般の目には触れることのなかった名品が知られるようになり、近代の数寄者(茶人)たちが競って買い集めます。
また、骨董価値の側面ではなく、科学的に古陶磁を研究する人々も現れます。
こうした盛り上がりは昭和初期には実業家や文化人にも広がり、多方面から鑑賞・収集される(古窯址の発掘ブームが起こり、陶片が売買される)につれ、前述の(誤った)通説に疑問を抱く陶芸家達によって、新たな事実が次々と見つかっていくのです。

陶芸家達は、古窯址で発掘した陶片とその周辺で採取した陶土や釉薬の原料を手がかりに、在りし日の作陶技法を解明しようとしました。こうした取り組みは、陶芸家同士の交友関係によって産地を超え「桃山復興」と呼ばれる断絶した伝統工芸を再び確立させる運動となります。唐津藩御用窯の12代中里太郎右衛門(後の人間国宝・中里無庵)も、古唐津の「斑唐津」「朝鮮唐津」の釉薬や、前出「肥前の大甕」の製造現場から叩き作りの技法を学び水指などの茶陶として復活させます。これらの土味を生かした素朴で力強い古唐津の作風を復興しつつ、古唐津の模倣ではない独自の作品を生み出し、現代唐津の先駆者となりました。
続く戦後の作家達も、一度は途絶えた古唐津の原点に回帰し、作家の個性と芸術性を追求する事により唐津焼全体の伝統工芸としての評価を高めていきました。昭和以降は作家の制作したものが唐津焼の中心となり、大量生産は行われなくなりましたが、古唐津に倣って自ら土を探し釉薬を作り、薪窯で焼くという一度は失われた唐津の伝統工芸を復活させたのです。
現在、古唐津復興後に開窯した窯元、そしてその2代目や、自ら開窯した若い世代を含む70以上の窯元の作家達が古唐津の伝統に向き合い、唐津焼という技法に新たな伝統を築くべく、作陶に励んでいます。

※使用画像については、佐賀県立九州陶磁文化館所蔵品となります。

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